戦後78年 「村山談話」と留学生の父・穂積五一
今年の8・15は78回目の終戦記念日である。この時期になると、頭に浮かぶのは、「トンちゃん」こと、村山富市さんが書いた戦後50年の首相談話だ。「痛切な反省」と「心からのお詫び」のアジアの人たちへのメッセージである。村山さんは来年3月で100歳を迎える。その長寿は、村山談話への神様からの贈り物ではないか。
私事になるが、毎日新聞の政治記者時代の中で、村山さんは特別な存在である。私は社会部経験の方が長く、政治部での現場取材はわずか3年である。その間、社会党の国対委員長時代と自社さ政権の首相の時代の2度、村山さんを直接取材した。私の政治記者人生は「トンちゃん」とのお付き合いが大半を占める。
社会党の国対委員長に就任したのは1991年の臨時党大会である。大会では土井たか子さんに代わって田辺誠さんが委員長に就任したが、国対委員長は予想外の選挙戦となった。田辺側近の候補者が大本命だったが、結果は村山さんが圧勝した。水面下で「隠れ村山派」が根回しをしていたのだ。国対委員長就任が村山さんの「出世街道」の第一歩である。
村山番の記者として昼間は国会内で記者会見やぶら下がり取材。当時、自民党は梶山静六さんが国対委員長だった。国会の廊下を「これから梶さんとこ行くんじゃ」と語る村山さんの後を追った。また、夜になると、靖国神社裏の衆院議員宿舎に記者仲間とともに押しかけた。宿舎ではウイスキーの水割りの接待を受け、ざっくばらんな会話を交わした。その際、酔いが回れば記者仲間が気安く「トンちゃん」と声をかけていたのを思い出す。
首相官邸記者クラブ時代は、村山さんと直接会うことはほとんどなかった。キャップとして首相執務室に挨拶に訪れた時は、「よろしう頼むな」と力を込めて握手されたのが記憶に残る。記者クラブの中で社会党国対委員長時代に付き合いがあったのは私だけだったようだ。他は自民党の取材経験が長い記者ばかり。村山さんは元村山番の私と久しぶりに会って「援軍が来てくれた」と思ったかもしれない。
さて、1995年8月15日の戦後50年の首相談話である。村山連立政権が発足したのは前年の6月。自民党223議席、社会党70議席、さきがけ13議席で、自民党は社会党の3倍の議席を持っていた。村山首相は社会党が「違憲」としていた自衛隊を「合憲」に改め、日米安保条約を容認した。社会党の「党是」を大転換した。その一方で社会党の首相らしさを打ち出そうと考えていた。それが戦後50年の節目に政府としてアジアに対して戦争責任を明確にすることだった。
村山談話は「わが国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を進んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」との認識を示した。そのうえで談話は「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明する」と述べた。
村山談話は閣議決定され、内閣の意思として公表された。植民地支配と侵略の歴史を率直に認め反省を込めた談話は、自民党の首相ではとても作成できなかったに違いない。党内で「あの戦争は自衛の戦いだった」と主張するタカ派が力を持っていた。しかし、連立政権を維持するため、村山さんの主張を飲まざるを得なかったのではないか。
村山さんは組合活動から政治の道を歩むようになり、大分市議、同県議を経て1972年の衆院選で初当選した。自民、社会両党による「55年体制」の時代だ。村山さんは社会主義思想の左派とは距離を置き、国会活動を中心にした現実路線を歩んだ。社会党国対委員長時代の付き合いでも、私たち担当記者に思想的な話や歴史観を熱っぽく語ることはなかったように思う。
その村山さんが、戦後50年の談話に強くこだわった背景にどんな個人的な体験があったのか。そんな疑問を持ち続けてきたが、村山さんの明治大学時代のある体験を知って、「なるほど」と思った。それは村山さんが学徒動員されるまで住んでいた至軒寮(後の新星学寮)という学生寮での穂積五一さん(1902~1981年)との出会いだった。
そこは日本人学生と外国人留学生が自主管理をしながら共同生活をする寮だ。穂積さんは多くのアジアの留学生を支援し、「留学生の父」と言われたカリスマ的な人物だ。79歳で穂積さんが亡くなった際、「追悼集」が刊行されたが、多くの元外国人留学生が穂積さんへの感謝と敬愛する気持ちを寄稿していた。
穂積さんが取り組んだのは留学生の支援だけではない。留学生会館のアジア文化会館をはじめ、経産省の関係団体の「海外産業人材育成協会(AOTS)」、タイのバンコクの「泰日工業大学」の設立も穂積さんの存在抜きは語れない。政財界の有力者が穂積さんの取り組みに理解を示し、様々な形で支援した。また、晩年は部落問題の「水平社宣言」を起草した西光万吉(1895~1970年)と親交があった。
村山さんは自身の回顧録で穂積さんについて「僕ら『ごいちさん』とよんでいたけど、とても立派な人」「差別をしないとか弱いものを平等に扱うとか。穂積さんはアジアのひとたちをもっと大事に扱うべきだとか考えており、毎日の生活の中でこういうことを実践していた」と述懐する。
その村山さんが2017年8月、73年ぶりに新星学寮を訪れたことが寮のフェイスブックに載っている。至軒寮時代とは場所も建物も変わっていたが、村山さんは寮のリビングにかけてあった穂積さんの写真を懐かしそうに眺めていたという。
至軒寮は戦後、「新星学寮」と名称が変更され建て替えにともなって移転したが、村山さん以外にも内外の多くの人材を輩出している。その一人の元法務大臣の杉浦正健元自民党衆院議員は、最も穂積さんに近い人物の一人だと言われている。杉浦さんは外務副大臣時代の2001年に「アジアの未来」と題した講演をしている。その中で穂積さんについてこう語っている。
「穂積先生からご指導いただいたアジアの学生との付き合いの中でも強調されたのは……、『どんな立場の人間であっても人間だ。1対1で全人格的に理解し合いことは可能だ』という信念でございました。アジアと私の関わり合いを考える場合に、この留学生との長い付き合いで得た私の信念とでも言っていいと思いますが、『日本はアジアの一員であり、アジアと共に生きる』ということが最も大事だという信念を、若い時代から自分自身の歩みで体得させていただいている次第であります」
杉浦さんの話からも感じられるのだが、穂積さんの信念が村山談話の中に生きている、というのが私の見立てだ。「日本はアジアの一員である」という理念は村山外交の柱だ。外遊といえば、首相就任直後のナポリ・サミットで下痢を患ったことが大きく報道されたが、在任中、村山談話を体現するかのようにアジア外交を積極的に展開していた。
ところで穂積さんは、東大時代に「天皇主権説」を唱え、「立憲学派」の美濃部達吉と対峙した憲法学者の上杉慎吉氏に師事した。思想的には保守の人だった。大学の2年先輩で後の首相の岸信介氏も当時から穂積さんを高く評価したという。穂積さんと岸元首相の関係性は、安倍晋三元首相に引き継がれているようだ。穂積さんの尽力でタイにできた「泰日工業大学」に漢字の文字を揮ごうしたのは安倍元首相だ。
余り知られていないが、安倍元首相は「アジアに学校つくる議員の会」をつくり、野党時代に夫婦でミャンマーに出かけて山間部に小学校を建設したという。第二次安倍政権が発足したばかりの2013年1月、ミャンマー元日本留学生協会の会長らが当時の安倍首相に「泰日工業大学をモデルにした〝モノづくり大学〟をミャンマーに作りたいので支援をしてほしい」と陳情した。
私も留学生協会の会長に同行したが、安倍首相はその考えに賛同し、外務、経産両省の担当局長にモノづくり大学建設を検討するよう指示してくれた。「水と油」と言われる村山、安倍の両元首相だが、「穂積イズム」でつながっているようだ。
村山談話は、戦後60年の小泉談話、70年の安倍談話へと、日本外交の一つのスタイルとして引き継がれている。首相によって歴史観やアジアへのスタンスが異なっても、村山談話が日本外交の指針として生きているのは間違いない。
ロシアのプーチン大統領のウクライナ侵攻によって、国際社会が大きく揺れている。中国の習近平政権は、台湾を支配するためは武力行使もいとわないと公言している。世界は分断の時代を迎えている。そうした時だからこそ、村山談話を読み返してみる価値があるのではないか、と思う。
にほんごぷらっと編集長・石原 進