移民政策の先駆者・故坂中英徳さんを偲んで 第二話 日本型移民政策の提言(上)
移民政策の先駆者・故坂中英徳さんを偲んで
第二話 日本型移民政策の提言(上)
元東京入管局長で移民政策研究所所長だった坂中英徳さんの最も大きな功績は何か。個人的な見解を聞かれれば、私は迷わずこう言う。「自民党の議員連盟で『日本型移民政策の提言』の原案を作成したことです」と。世間ではあまり注目されていないが、2008年に作成されたこの提言は、その後の政府の外国人受け入れ策に反映され、いまでも輝きを放っているように思えるからだ。
2008年の1月ごろだった思う。坂中さんは外国人材交流推進議員連盟(会長・中川秀直元幹事長)の会合に呼ばれ、そこで「移民受け入れ」を提案した。数日後、坂中さんは私に「議連が先日の私の話に賛同してくれ、移民受け入れを検討しようということになりました。手伝ってくれませんか」と話した。半信半疑だったが、とにかくどんな協力ができるのか。坂中さんと話し合った。
議員連盟は、政策課題を議論する任意の団体だ。与野党の議員が集う超党派の議連もあれば、それぞれの党内の議員でつくる場合もある。組織を運営するのは事務局長だ。私は外国人材交流推進議員連盟事務局長の中村博彦自民党参院議員(当時)とは、毎日新聞社にいたころに取材を通じて知り合った。中村さんは当時、全国老人福祉施設協議会(老施協)会長。老施協は全国の6000近い特別養護老人ホームを組織化した団体だ。中村さんは「介護業界のドン」だった。
中村さんが外国人材交流推進議員連盟を設立したのは、人材不足の介護業界に外国人の受け入れ枠を創設するためだった。具体的には介護に技能実習生を迎い入れたかった。しかし、厚労省はそれを頑として認めず、議連の活動は停滞していた。そこで元幹事長だった実力者の中川さんを会長に迎え、巻き返しを図ろうとしていたところに、坂中さんが移民受け入れの考えを持ち込んだ。
「移民」は議連にとっても、「渡りに船」だったのだろう。話はとんとん拍子に進み、坂中さんと私、さらに筑波大学准教授だった明石純一さんにも協力してもらい、事実上、議連の運営を担当することになった。元政治記者だった私が永田町の事情に通じていたので議連との折衝役を買って出た。
議連は総会を月に1回開いた。移民問題に関する様々な課題について専門家の話を聞き、議員側からも意見や質問を出し合った。総務省の「多文化共生プラン」の原案作成を主導した明治大学教授の山脇啓造さんや国連難民高等官弁務所日本駐日代表の滝沢三郎さんらを講師に呼んだ記憶がある。総会の議論を文章としてまとめ、それを積み重ねて推敲し、総会の承認を得て正式に議連の提言になるのだ。
議員の間に抵抗感が強かった「移民」という言葉を提言にどう盛り込むか。記憶によれば、総会ごとのまとめの文章の中で、当初は「外国人労働者」という言葉を使い、次に「外国労働者(移民)」、「移民(外国労働者)」、最後は「移民」として最終文書に盛り込むことを画策した。議論の流れの中で言葉遣いを変えることで、「移民」という言葉への反発を和らげる考えだった。思惑通りにことが進んだ。メディアも注目し、「移民1000万人構想」の議論が議員連盟で展開されたことが新聞などで報じられるようになった。
最終的な提言案を坂中さんが執筆した。私は坂中さんから頼まれて前文を書いた。社説を書く要領で文章の構成を考えた。タイトルは「日本型移民政策の提言」である。毎年20万人の移民を受け入れ、半世紀後には1000万人の移民の労働力が日本を支えるという内容だ。6月の最後の総会の前日に提言案を議連事務局長の中村さんにメールで送信した。
ところが、中村さんの関係者から「議員の間に移民という言葉に反対する声が多い。別の言葉にしてほしい」と言ってきた。私はこの申し出をただちに拒否した。提言案はこれまでの総会の議論の積み重ねを踏まえて作成した。そこには「移民」という言葉も使っている。「そちらの申し出は承服できない。そんなことを言うのなら、明日の総会には坂中さんと私は出ません!」とメールを送信した。
これに対し、すぐに返事が来た。「わかりました。提言案はそのまま使わせていただきます」という内容だった。坂中さんには私が「総会出席拒否」のメールを送ったことは知らせなかった。元官僚の坂中さんが政治家に真っ向から反論するのはどうかと考えた。坂中さんは「移民」という言葉をどのように変えることができるのか、「深夜まで言葉遣いをどうするかで考えた」と後日、私に打ち明けた。
総会に提出された中間とりまとめは「人材開国!日本型移民政策の提言 世界の若者が移住したいと憧れる国に構築に向けて」。坂中さんの問題意識を反映したタイトルをはじめ、提言の文面はまったく字句修正が行われることなく承認された。新聞は「1000万人移民受け入れを提案」とそれなりに大きく報じた。
これを受けて、議連会長の中川さんは、自民党の提言に自民党の提言に格上げして福田康夫首相に提出した。私たちは「自民党としての提言」には一切関わらなかった。一部新聞がこれを小さく伝え、提言を手にした福田首相は「検討したい」と語っていた。
なぜ、そこまで中川さんが積極的な動きを見せたのか。不思議に思っていたが、その理由はすぐにわかった。中川さんはその時期に自身の政権構想のような著書を出版していた。その中には「日本型移民政策」がそっくり盛り込まれていた。元自民党幹事長の中川さんが次期首相の座を狙うのは理解できる。中川さんは「上げ潮」というキーワードを使った経済政策を提案していたのだ。
ただ、「日本型移民政策の提言」が自民党の政策に格上げされた際、中村さんサイドからはこう言われていた。「議連の提言は坂中さんや石原さんの考えを踏襲しましたが、自民党の政策は私たちが考えます」と。つまり、自民党の提言には「移民」という言葉は使わなかったということだ。私としても、自民党の政策にまで、あれこれ口をはさむわけにはいかない。この時、私は政治の世界の「狡猾さ」に舌を巻くしかなかった。
過去の出来事に「もしも……」と言ってみても始まらないが、福田政権が続いていたら、また中川元幹事長が首相になっていたとしたら、日本の外国人受け入れ政策はどうなっていたのだろうか。
さて、冒頭で日本語型移民政策の提言が「その後の政府の外国人受け入れ策に反映され、いまでも輝きを放っているように思える」と書いた。この点に関しては次回の「日本型移民政策の提言(下)」でお伝えしたい。
(石原進)=つづく