日豪の友好の歴史を見直そう——日豪議員連盟が「穣の一粒」と「藤田サルベージ」で勉強会
日豪の友好の歴史を見直そう——日豪議員連盟が「穣の一粒」と「藤田サルベージ」で勉強会
日本オーストラリア国会議員連盟(日豪議連・逢沢一郎会長)がこのほど、「穣の一粒」(愛媛新聞社)と「藤田サルベージ」(セルバ出版)という2冊の本を教材に勉強会を開いた。いずれも著者は、豪州に長年暮らす作家で社会活動家の松平みなさん。日豪間の「秘史」を丹念に掘り起こした功著だ。日豪の二国間関係は、一般には余り知られていないが、2冊の書籍には日豪友好の歴史の礎を築いた先人たちの感動のドラマが盛り込まれている。
国会議員の議員連盟は、様々な課題や政策を独自に調査、研究する任意団体だ。「日中」や「日韓」のような二国間関係に焦点を当てたものや、日本語教育推進議員連盟のような政策作りに特化して活動する議連もある。日豪議連は両国の友好親善を目指して活動しており、このところ安全保障の議論することが多くなったが、過去の歴史にも目を向けようと、今回、松平さんらを招いて勉強会を開いた。
松平さんは東京都出身。東大に進学したが、大学紛争で中退。豪州に移住し、シドニー大学やシドニー工科大で1年間、教鞭をとるが、その後は日豪の姉妹都市交流を推進する一方、両国の交流の歴史を取材するなどして作家活動を続けている。
「穣の一粒」は、書名であるとともに豪州米の商品名でもある。その生みの親は愛媛県出身の高須賀穣氏で、「穣の一粒」の「穣」は高須賀穣氏の名前から採ったものだ。豪州に稲作を広めた日本人の名前が付いた豪州米が日本に逆輸入されているのだ。
高須賀氏は江戸時代末期の1865(元地2)年、松山藩の侍の家に生まれた。松山師範学校を卒業して小学校の教師となったが、父の許しを得て東京の慶応義塾で学び、その後、米国・ペンシルバニア州のウエストミンスター大学を4年余りかけて卒業した。明治初期に単身、米国に渡った高須賀氏は海外留学の草分け的な存在だった。
帰国後は伊藤博文政権下で衆院議員を2期務めたが、1905(明治38)年に妻と子供2人を連れて豪州に移住する。その国の大地で初めてコメ作りを始めるが、アジア人などを蔑視する白豪主義や洪水など自然災害が大きな壁となった。しかし、家族が力を合わせ,苦労の末に1912年に稲穂を豪州に地に実らすことができた。これが豪州米の始まりである。その後、稲作は豪州の大きな産業となり、高須賀氏は「豪州米の父」といわれている。
松平さんは、高須賀穣氏の生い立ちから、その生き方、さらには豪州での一家が結束して苦難に立ち向かう姿を物語としてまとめた。豪州に移住した松平さんは松山市にも足を運ぶなどして丹念に取材を重ねた。行間には豪州移民の先人である高須賀穣氏への思いがにじんでいる。
一方、「藤田サルベージ」は、日本の戦後復興と日豪友好の歴史を彩る海の男のエピソードだ。舞台は豪州北部の港町ダーウィン。日本軍は1941年12月に真珠湾を攻撃して日米戦争が始まったが、その2か月後に日本軍はダーウィン湾の連合艦隊を急襲した。その攻撃で戦艦など7隻が沈没、100人以上が犠牲になった。豪州人の間には「リメンバー・ダーウィン」の怨念の気持ちがあったに違いない。
豪州には沈没船を引き上げる技術がなく、17年間にわたり湾の障害物として放置されていた。その沈没船の引き上げにあたったのが、松山市にあったサルベージ会社「藤田サルベージ」(当時は海事工業藤田組)である。起重機船を含む4隻が赤道を超えてダーウィンに遠征し、潜水夫が海底の沈没船を解体して引きあげた。併せて遺骨の収集にもあたった。作業は2年半にわたった。
鉄くずを日本に持ち帰ったが、それは日本の戦後の大きな資源となった。戦時中、鉄は艦戦や大砲など装備のために供出させられた。焼け野原となった日本には鉄材がなかった。そうした中、海に沈んだ艦戦から鉄材を引き上げ、鉄材を再生するため製鉄会社に収めたのが藤田サルベージだった。
当時はダーウィンでは敵国だった日本に複雑な思いを抱く住民が少なくなかったという。しかし、見事な連携で引き揚げ作業をする藤田サルベージの男たちに対し、地元住民はしだいに尊敬の念を抱くようになり、藤田サルベージが開いた日本食のパーティーなどを通じて交流を深めた。藤田サルベージの取り組みは、戦後復興に寄与するとともに、日豪友好の一ページを開いたわけだ。
本の副題には「本の戦後復興・日豪親善に大貢献した藤田柳吾と家族」とある。藤田柳吾はダーウィンで難事業を指揮した藤田サルベージの社長だ。議員連盟の勉強会には孫の藤田欣子さんが出席した。
約40人が出席した勉強会では松平さんが、高須賀穣と深田サルベージにまつわる「ドラマ」を現地の写真などを交えて紹介した。議員側からは活発な質問や意見が寄せられた。逢沢会長は「日豪の礎を築いてくれた先達のことに大いに学びながら、二国間関係の将来を構想したい」と話していた。
にほんごぷらっと編集部